映像

映像とは本来イメージの訳語として生まれた語ですが、原意よりもずっと狭義に用いられていることに注意する必要があります。イメージが元来、姿、肖像、象徴、心像などを意味するのに比べて、日本語の映像は厳密に言えば、光学的なプロセスを通じて再生された像を指すと考えるのが正しく、鏡に映った像、写真、映面、テレビなどに映し撮られた像、それが映像であって、心に描いた像、心像または心象や、筆で描いた像、画像などは除外されます。写真、映画、テレピ、この3つの媒体の共通の基盤は、こうした決像ですが、映画とテレビの写真に対する特性は、動く映像ということであり、活動写真カメラの発達によって映像が時間的な変化を記録できることになったことの意義は想像以上に大きく、印刷術の発明に比すべき文化史的革新であり、いわゆる映画的言語が成立することとなりました。この観点から、かつてベラバラージュは読む文化に代って見る文化が新しく生まれ、視覚的人間が誕生してくると予言しましたが、事実そのとおりになりました。文字とその内包する概念をよりどころとしてではなく、映像によっていきなり直観的に物事を感受し理解するタイプの世代が勢いを得つつあります。フィーリング時代などと言われる今日の傾向は、映画とテレビ、それにこれは映像ではないがマンガを多く見て育った若い層の間から発芽したものです。ただし、映像偏重の現状には、また一面において一つの危険性がありました。映画内部においてはそれは映像主義と称される潮流、映画において映像が全てであり、自己目的であると考える形式主義、ただひたすらに感覚的に美しいあるいは強烈に刺激的な映像を創ることのみに没頭する流派を生みだし、また一般的に無思考型感性型の、た無個性の世代を造り出すきらいがありました。

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